ログイン会議が終わったあとも、莉愛はしばらく席を立てなかった。
画面には、修正途中の提案資料が映っている。
結和ケア向け連携支援システム提案。
段階導入案。
架空ケースを使ったデモの流れ。
どれも、昨日までよりは確実に良くなっている。大きな構想をただ押し出すのではなく、最初に現場が何をするのか、どこで地域連携室が受け取るのか、止まりそうな場面をどう見せるのか。
必要な修正だ。
そう分かっているのに、莉愛はスライドの一枚目を睨んだまま、マウスを動かせずにいた。
表紙の次に置かれているのは、ノヴァリンク側の全体構想だった。
複数拠点。
家族連絡。
管理画面。
データ集計。
どれも強みだ。
けれど、莉愛はそのページを一度クリックし、少し迷ってから後ろへ移動させた。
代わりに前へ出したのは、まだ作りかけの段階導入案だった。
『初期導入時に現場へ
人を誘うというのは、こんなに難しいことだっただろうか。 私はソファに座ったまま、スマホの画面を見つめていた。 相手は玲央さん。 先日、自分で作ったそぼろ丼の写真を送ってから、何度かメッセージを交わしている。何か用事があったわけではなく、今日も仕事はどうだったとか、夕飯は何を食べたとか、そんな他愛もない話ばかりだ。 それが嬉しかった。 だから、また会いたいと思った。 ただ、それだけなのに。『今度のお休み、時間はありますか?』 そこまで入力して、指が止まる。 理由がない。 仕事の相談でも、契約に関する確認でもない。 何か適当な用事を作った方がいいだろうか。先日の本屋で買った料理本について話したいとか、以前行ったカフェにもう一度行きたいとか。 いや、料理本の話ならメッセージで済む。 カフェだって、一人で行ける。「……何やってるんだろ、私」 思わず声が漏れた。 会いたいなら、会いたいでいい。 朱音にも、嬉しいことまで保留にしなくていいと言われたばかりだ。 私は思い切って送信ボタンを押した。 その直後、慌ててスマホを伏せる。 まるで、とんでもない告白でもしてしまったみたいだった。 数秒後、通知音が鳴った。『あります。琴葉さんから誘っていただけるとは思っていませんでした』 私は画面を見つめた。 ……喜んでくれている? そう思ったところへ、続けてメッセージが届く。『行きたい場所はありますか。必要なら、こちらで候補を用意します』 候補。 その二文字に、私は思わず笑ってしまった。『今回は候補一覧なしでお願いします』『分かりました。では、行き先だけ教えてください』『特に決めていません。商店街を歩いたり、気になったお店に入ったりできれば』
「それは考えています」 玲央が答えると、蒼真が興味深そうに身を乗り出した。「おっ、料理を覚えるのか?」「必要なら、覚えたいと思っています。琴葉さんに任せきりにはしたくありませんから」「……玲央、お前、料理したことあったか?」「ほとんどありません」「だよなあ」 蒼真は腕を組み、何やら考え始めた。「じゃあ、まずは卵を割るところからか?」「卵を割ることくらいはできます」「そうか。なら安心だな」「兄さん、俺を何だと思っているんですか」「高級な食材は手配できるけど、包丁の場所は分からなさそうな弟」 否定しようとして、玲央は口を閉じた。 確かに、自宅のキッチンで包丁がどの引き出しに入っているのかは知らない。 その沈黙を、蒼真は見逃さなかった。「お前、今ちょっと考えたな?」「……確認したことがありません」「やっぱりか!」 とうとう桐華が声を上げて笑い始めた。 征一郎も苦笑しながら、玲央を見る。「まあ、最初から何でもできる必要はないだろう。大切なのは、一緒に過ごそうとする気持ちだ」「はい。俺も、そう思います」「ただし」 蒼真が人差し指を立てる。「間違っても、琴葉さんと料理をするために専用キッチンを新設するなよ」「しません」「本当か?」「今のところ、その必要は感じていません」「今のところ!?」「兄さん、先ほどから何なんですか」「お前の答えがいちいち怖いんだよ!」 玲央は少し眉を寄せた。 自分では、かなり普通に考えられるようになったと思っていたのだが。 桐華はひとしきり笑ったあと、優しい声で言った。「でも、いいことね。玲央が誰かと一緒に食事を作ってみたいと思うなんて」 その言葉に、玲央は静かに頷いた。
琴葉から届いた夕飯の写真を、玲央はもう一度眺めた。 鶏そぼろと卵、小松菜が盛りつけられた丼。高級料理店の一皿とは違う、飾り気のない家庭料理だった。 けれど、玲央にとっては妙に印象深い写真だった。 琴葉が自分のために料理を作ったこと。そして、その出来事を自分に伝えたいと思ってくれたこと。 何より嬉しかったのは、最後のやり取りだ。『いつか琴葉さんが誰かと食べてもいいと思える時が来たら、その時は俺も候補に入れてもらえると嬉しいです』『その時が来たら、考えます』 断られなかった。 もちろん、約束されたわけでもない。それくらいは分かっている。 それでも、以前の琴葉なら、もっと慎重に距離を取っていたかもしれない。 玲央はスマホを伏せ、ソファの背にもたれた。「……なるほど」「何がなるほどなんだ?」 突然声をかけられ、顔を上げる。 リビングの入口に、兄の蒼真が立っていた。「いや、少し考え事をしていました」「仕事か?」「違います。琴葉さんのことです」「おお」 蒼真の表情が、分かりやすく変わった。 しまった、と思った時には遅かった。「母さん! 玲央が琴葉さんのことで考え事をしてる!」「兄さん、わざわざ報告しなくても」「何を言う。鷹宮家では重要案件だろう」「案件ではありません」 その声を聞きつけたのか、廊下の向こうから桐華が顔を出した。「あら、琴葉さんのお話?」 その後ろには、ちょうど書斎から出てきた征一郎までいる。 玲央は内心でため息をついた。 なぜ家族が揃うのだろう。 しかも、全員が妙に楽しそうだ。「それで、何があったんだ?」 蒼真に促され、玲央は少し考えた。 琴葉が自分のために料理を作り、その写真を送ってくれたこと。いつか誰かと食卓を囲む時には、自分も候補
玲央さんからの返事は、すぐに来た。『とても美味しそうです』 その一文だけで、肩の力が抜けた。 少しして、続きが届く。『琴葉さんが、自分のために作ったご飯なのですね』 私は箸を持ったまま、画面を見つめた。 玲央さんは、そこを見てくれる。 料理の出来栄えだけではなく、私が自分のために作ったことを。 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。『はい。少し緊張しました』『料理は緊張するものなのですか』 真面目な質問に、少し笑ってしまう。『誰かに出すわけじゃないのに、失敗したらどうしようと思いました』『琴葉さんが食べるご飯なのに、ですか』『はい。自分のために作ることに、まだ慣れていないのかもしれません』 送ってから、少しだけ踏み込みすぎただろうかと思った。 けれど、玲央さんの返事は急がなかった。 数秒置いてから届いた言葉は、いつものように静かだった。『慣れていないことを、今日一つ始めたのですね』 私はその文を読み、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 大げさに褒めるのではなく。 成功か失敗かで判断するのでもなく。 ただ、始めたことを見てくれる。『そう言われると、少し立派なことをした気がします』『立派だと思います』『そぼろ丼を作っただけです』『琴葉さんが、自分のために作ったそぼろ丼です』 私はまた、返事に困った。 どうしてこの人は、何でもないことをこんなふうに大事に受け取ってくれるのだろう。 嬉しい。 怖い。 その二つがまた、同じ場所で揺れる。『味はどうですか』 玲央さんから、次のメッセージが届いた。 私はひと口食べてから返した。『少し濃いです。でも、美味しいです』『次は少し薄くできますね』
その日の仕事は、思っていたより落ち着いて進んだ。 結和ケアの正式導入協議に向けた確認事項はまだいくつもある。けれど、以前のように一つの不安から次の不安へ走っていく感じはなかった。 メールを確認し、資料を開き、必要な箇所だけを直す。 分からないところは、分からないまま印をつける。 全部を一度に片づけようとしない。 それだけのことなのに、少しだけ呼吸が楽だった。 昼休み、朱音は何事もなかったようにコンビニのサラダを食べながら、私の方をちらりと見た。「料理本、今日開く?」「たぶん帰ってから」「お、生活改善プロジェクト始動」「その名前は採用しない」「じゃあ、一人分ご飯計画」「それはまだまし」 そんな軽いやり取りのあと、朱音はそれ以上踏み込まなかった。 嬉しいなら、嬉しいことまで保留にしなくていい。 朝に言われたその言葉が、仕事をしている間も、時々ふっと戻ってきた。 嬉しい。 その言葉を、自分の中でちゃんと認めるのは難しい。 喜べば、次に失うのが怖くなる。 大事にすれば、壊れた時が怖くなる。 近づけば、離れる時の痛みまで想像してしまう。 陽斗との婚約が終わった時、私は自分が何を間違えたのかを何度も考えた。もっと早く気づくべきだったのか。もっと違う言い方をすればよかったのか。もっと自分を押し殺せば、形だけは続いたのか。 今なら、その考え方自体が苦しかったのだと分かる。 それでも、簡単に全部を手放せるわけではない。 終業後、私はまっすぐ部屋へ帰った。 スーパーで卵と小松菜、鶏ひき肉を買う。料理本の最初の方に載っていた、簡単なそぼろ丼なら作れそうだと思ったからだ。 誰かに出す料理ではない。 失敗しても、私が食べるだけ。 それなのに、キッチンに立つと少しだけ緊張した。 本を開き、手順を確認する。 材料を切
週明けの朝、私はいつもより少し早く会社に着いた。 鞄の中には、休日に本屋で買った一人分の料理本が入っている。なぜ会社に持ってきたのかと聞かれたら、自分でも少し困る。朝、部屋を出る前にテーブルの上に置いてあるのを見て、なんとなく鞄へ入れてしまった。 休みの日に、自分で選んで買った本。 ただそれだけなのに、置いていくのが少し惜しかった。 その本の帯には、『まずは自分のために、ちゃんと食べる』と書かれていた。 その一文が目に入った時、私は少しだけ立ち止まってしまった。誰かの好みに合わせる料理ではなく、失敗しないための料理でもなく、まず自分が食べるための料理。 そんな当たり前のことを、私はずいぶん長く後回しにしていた気がする。 デスクに鞄を置き、パソコンを立ち上げる。結和ケアの正式導入協議はまだ本格的に始まっていないけれど、確認しておきたいことはいくつかあった。 それでも、今日は資料へ飛びつかない。 まずはメールを確認して、予定を見て、落ち着いて一つずつ進める。 そう思っていたところで、背後から声がした。「琴葉」「おはよう、朱音」「おはよう。で、その顔は何?」 いきなりだった。 私は思わず振り返る。「顔?」「うん。週明けの朝から、妙に穏やかな顔してる。仕事で勝った人の顔とはちょっと違うし、よく寝た人の顔とも違う」「顔だけで分類しないで」「じゃあ、心の距離感で分類する」「もっと困る」 朱音は自分のデスクに荷物を置きながら、こちらをじっと見る。 その目が、妙に鋭い。「水族館の人?」 私は一瞬だけ返事に詰まった。 本当に、一瞬だけ。 けれど朱音はそれを見逃さなかった。「はい、今ので八割確定」「何が」「水族館の人が関係してる」「……昨日、少し会っただけ」「少し







